京都地方裁判所 昭和30年(わ)944号 判決 1958年8月08日
被告人 金本仁述こと金仁述
主文
被告人を無期懲役に処する。
押収してある石工用両刃叩(証第一号)はこれを没収する。
訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
被告人は、昭和二十七年二月頃児島七左衛門から同人所有の京都市右京区西院東淳和院町三十番地所在の家屋一戸を賃借し、妻子とともに同所に居住していたが、昭和二十八年三月頃妻寿連が死亡したので、一年余鰥(やもめ)暮しをした後、昭和二十九年六月頃金徳南と再婚し、同所で、飲食店及び古鉄収集業を営みながら、同女及び先妻の遺児四子とともに暮していたところ、偶々金員調達の必要が生じたので、昭和三十年二月十五日頃右家屋の賃借権を富山武志こと夫達封に譲渡し、その手附金として金十万円を受領した。ところが、右家屋の明渡並びに残代金支払期日である同月二十一日頃、被告人が残代金を受取るため夫達封方に赴いている間に、同人は、妻金甲生に命じて家財道具を前記家屋に運び込ませ、しかも右残代金額については被告人がこれを二十五万円と主張するのに対し二十万円であると主張して飽くまで譲らず、その解決を見ず従つて残代金の支払をしないまま、同日妻子六名とともに右家屋に移り住み、同家階下奥四畳半間及び二階奥六畳間を占拠し、残余の階下表四畳間、二階表六畳間及び同中四畳半間に住む被告人方家族と右家屋内に同居するに至つた。その後双方の知人等の仲介により一旦和解が成立したが、なおも双方が相手方に対する不信の念に駈られた余り、新たに定めた家屋明渡並びに残代金支払期日である同年三月二十六日になつても、互に相手方の先履行を主張するだけで自ら進んで自己の義務を履行しようとせず、右期日を徒過したまま、たゞ相手方の非を攻撃しているうち、夫達封において、同年四月初頃被告人に対し右家屋の明渡請求訴訟を提起するとともに、同年五月四日には前記階下表四畳の間につき使用禁止の仮処分を執行したが、偶々この執行は、被告人の外出中妻金徳南が子宮外姙娠の予後を養うため同室で臥床していた際に行われたので、右執行の直後帰宅した被告人は、同女から、「こんなにまでされてはこの家には居られない」と泣いて訴へられて痛く憤激し、直ちに右執行を実力で排除し、引続き自己において同室を使用して来たのであるが、その後も夫達封は近隣等へ「金本は裁判に負け家は釘付けにされた」等と放言し、金徳南に対しても「家を釘付けにまでされてどうして居られるのか、もう一週間も経てば裁判所からお前達を放り出しに来る」等と悪罵し、被告人もまたこれに罵言を以て報いるという有様で、被告人一家と夫達封一家とは同じ家屋内に同居しながら互に犬猿の如く憎み合い、口論の末暴力沙汰に及ぶことも屡々であり、そのため告訴沙汰に至ることも両三度に止まらなかつた。このような情況の下において、同年六月二日頃金徳南が家出したので、被告人は、同女に対する愛恋の情を断ち難いまま、自己の職業をも放擲して同女を探し求め、漸くにしてこれを探し出し連れ戻したこともあつたが、その都度逃げ出され、殊に同年七月初同女が和歌山県下で国城三郎と同棲しているのを発見してこれを後記兄金錫伊方まで連れ戻したときには、後記第三記載の如き犯行を敢えてしてまで同女の引留めに心を砕いたが、その効なく、その犯行の直後またまた同女に逃げ出されたため、その後は寝食をも忘れ、狂気のようになつて同女の行方を探し求めたのに、遂にこれを発見することができず、そのため、被告人は同女に対し一層愛惜の情を募らせるとともに、かように同女が被告人の許を出奔するに至つたのも、畢竟、夫達封が前記家屋の賃借権譲渡代金を誠実に支払わないでその家族とともに強引に被告人方へ移り住み、しかも被告人一家を追い出すために前記の如き悪辣冷酷な手段を執つたためであると考え、同人及びその家族に対し憤懣憎悪の情抑え難いものがあつたところ、被告人は、
第一、昭和三十年五月十五日頃前記自宅で、折柄夫達封を訪問中の中国人潘茂権(当時二十九年)に対し、「チヤンコロ」と面罵したため、口論の末、矢庭に同人の胸部を足で蹴り、因つて、同人に対し全治約三日間を要する胸部打撲傷を負わせ、
第二、妻金徳南が前記の如く被告人の許を出奔したのは李慶子(当時四十年)の指嗾によるものであると考え、同女に対し憤懣の情禁じ難きものがあつたが、同年六月二十三日頃京都市下京区東七条屋形町一番地の同女方に赴き、同女に対し、金徳南の所在を問い質したところ、右李慶子において、知らない旨答えたので、憤激の余、
(一) 即時同所で、右李慶子の胸倉を掴み、手で同女の左顔面を一回殴打し、
(二) 同日同市上京区猪熊通丸太町下る東藁屋町六百三十六番地李敬純方で、右李慶子に対し、その首筋を引張つて同家炊事場のコンクリート土間に投げつける等の暴行を加え、因つて、同女に対し全治約三週間を要する頸部捻挫傷及び右肘、左前膊部、前胸部、左右両脛骨部の各打撲傷を負わせ、
第三、同年七月五日頃同市右京区西院今田町五十一番地兄金錫伊方で、前記金徳南(当時三十年)に対し、同女がさきに被告人に無断で家出したことを憤り、且つ同女が今後再び出奔できないようにしてやろうと考え、同女を仰向けに押し倒した上、バリカン及び鋏で同女の頭髪を長さ一寸乃至二寸位に疎らに刈り取り、更に同女の胸部、肩、腕等を足で蹴り、手で殴打する等の暴行を加え、因つて、同女に対し治療約三週間を要する左上膊部皮下出血及び左肋骨打撲傷を負わせ、
第四、冒頭記載のように、前記被告人方家屋の賃借権の譲渡をめぐり、夫達封との間に紛争を生じ、しかも日を追うに従つてその深刻の度を加え、同人及びその家族に対する憤懣憎悪の情を募らせて来たが、殊に同年六月初旬に至り、愛恋の情を断ち難い妻金徳南が家出し、しかも同年七月初旬一旦同女を連れ戻し前記第三の犯行を敢えてしてまでその引留めを策したのに、またまた同女が被告人の許を出奔するに及び、容易にその所在を発見し得ず、思い悩むうち、同女の出奔も、畢竟、夫達封の不誠意により右の紛争を惹き起すに至つたことと、その紛争の過程における同人やその妻の悪辣冷酷な仕打とに因るものであると考え、遂に右憤懣憎悪の情を押え切れなくなり、ここに同人の妻子を殺害してその情を晴らそうと決意し、同年七月十五日午前二時頃同家階下奥四畳半の夫達封方居室で、同室に就寝中の同人の妻金申生(当時三十五年)、長女夫光栄(当時九年)、二男夫貴亨(当時六年)、三男夫貴恒(当時四年)、二女夫幸栄(当時一年)に対し、それぞれ、石工用両刃叩き(証第一号)でその頭部等を数回殴打し、更に庖丁様の鋭器でその頸部等を数回突き刺し、金申生に対し約二十個の、夫光栄に対し約十九個の、夫貴亨に対し約十一個の、夫幸栄に対し約九個の、それぞれ脳挫傷を惹起せる頭部挫裂創を含む身体各部の創傷を、又夫貴恒に対しその身体各部に頸髄切断を惹起せる頸部刺切創等約十四個の創傷を与え、因つて、右金申生、夫光栄、夫貴亨及び夫幸栄をしていずれもその各脳挫傷に因り即死させ、又夫貴恒をして頸髄切断に因り同日午後二時五十分頃同市中京区四条通大宮上る京都四条大宮病院において死亡するに至らせ、以てそれぞれ殺害の目的を遂げた
ものである。
証拠
判示冒頭記載の事実は、
一、被告人の第四十一回及び第四十二回各公判廷での供述
一、被告人の司法警察員に対する昭和三十年七月二十日付、同月二十七日付、同月二十九日付、同月三十日付、同月三十一日付、検察官に対する同年八月十日付、同月十三日付(但し検(2)の甲六七号の分のみ)、同月十四日付各供述調書
一、第二回公判調書中、証人夫達封の供述記載
一、児島七左衛門の司法警察員に対する供述調書
一、第三回公判調書中、証人植杉光男、同大林孝の各供述記載
一、第四回公判調書中、証人上原浩の供述記載
一、第五回公判調書中、証人小林為太郎、同金広八、同河鶴水の各供述記載
一、第六回公判調書中、証人朴武益、同金順南、同呉宅書(但し排除決定した分を除く)
の各供述記載
一、第七回公判調書中、証人荻野一男の供述記載
一、証人林道子に対する当裁判所の尋問調書
一、第八回公判調書中、証人金君玉の供述記載
一、第十七回公判調書中、証人金徳南の供述記載
一、第十八回公判調書中、証人李敬純の供述記載
一、第二十三回公判調書中、証人能勢克男の供述記載
一、第二十五回公判調書中、証人金仁徳の供述記載
一、取寄にかかる仮処分事件記録二冊及び仮処分執行記録二冊
を綜合して、これを認め、
判示第一の事実は、
一、第二十回公判調書中、証人潘茂権の供述記載
一、第十九回公判調書中、証人西本矢の供述記載
により、これを認め、
判示第二の各事実は、
一、被告人の検察官に対する昭和三十年七月二十五日付供述調書中、被告人の供述として、妻金徳南は六月二日自分の留守中に家出したが、私は李慶子が右家出の手引きをしたことを知り、腹が立つてたまらず、同女方へ押しかけ、妻を何処へやつたかと毎日の様に責めた結果、六月十九日頃李慶子から徳南の居る処を聞き、徳南を連れて帰つたが、その翌朝又同女は逃げて了つた、それで、自分は李慶子が何処かへやつたものと思い、六月二十三日午後四時半頃李慶子の家へ行き、妻を何処へやつたか行先を言え、と言つたが、李は知らないと言つて答えなかつた、との記載
一、李慶子の司法警察員に対する昭和三十年七月十五日付、検察官に対する同月二十一日付各供述調書
の外、
(二)の事実につき、
一、第十八回公判調書中、証人李敬純の供述記載
一、第十九回公判調書中、証人上山恒則の供述記載
により、これを認め、
判示第三の事実は、
一、第一回公判調書中、被告人の供述記載
一、被告人の司法警察員に対する昭和三十年七月十五日付、検察官に対する同月二十五日付各供述調書
一、第十七回公判調書中、証人金徳南の供述記載
一、第十九回公判調書中、証人池上重恵、同堀部与八の各供述記載
により、これを認める。
更に、判示第四の事実につき、その証拠を案ずるのに、
まず、判示日時判示家屋の階下奥四畳半の夫達封方居室で、同室に就寝中の同人の妻子である判示金申生、夫光栄、夫貴亨、夫貴恒、夫幸栄の五名がそれぞれ判示の如き創傷を蒙り、そのうち夫貴恒は判示日時、判示病院で死亡した外、他はいずれも即死したこと、及び右五名の死因が判示のとおりであることは、
一、第二回公判調書中、証人夫達封、同夫貴南の各供述記載
一、司法警察員作成の検証調書及びこれに添付の現場見取図並びに現場写真記録
一、医師浜岡肇作成の金申生、夫貴亨、夫貴恒の各死体検案書
一、医師古川二郎作成の夫光栄、夫幸栄の各死体検案書
一、医師島田泰男作成の証明書
一、鑑定人浜岡肇作成の金申生外三名屍解剖鑑定書及び夫貴恒屍解剖鑑定書並びにこれらに各添付の附図
一、鑑定人浜岡肇作成の昭和三十二年十二月六日付鑑定書
を綜合して、これを認め
次に、
(一) 被告人の第四十二回公判廷での供述及び前掲第二回公判調書中の証人夫達封、同夫貴南の供述記載によると、被告人が、本件犯行の直前である昭和三十年七月十五日午前零時半頃及び本件犯罪発覚時である同日午前六時頃乃至六時半頃、いずれも犯行現場である前記四畳半の間と二階への階段一つを距てた同家階下表四畳の間に居たことが認められ、
(二) 第四回公判調書中の証人石原信雄、同鎌田彦太郎の各供述記載、第十二回公判調書中の証人石原ふさ、同池村ハツの各供述記載、司法巡査小島政広作成の報告書、鎌田彦太郎作成の任意提出書、これに対応する司法警察員作成の領置調書、司法警察員作成の実況見分調書及びこれに添付の図面と写真、当裁判所の検証調書、押収にかかる石工用両刃叩き一挺(証第一号)及びズボン一着(証第二号)によると、右石工用両刃叩き及びズボンは、本件犯行より六日後である昭和三十年七月二十一日犯行現場より徒歩で約四分の近距離にある下水溝の暗渠内から、右ズボンの中に両刃叩きが捲きこまれたような状態で発見されたのであつて、右下水溝は、これらの品が右暗渠内に詰つていたため、本件犯行の頃から逐次増水して来たことが認められ、
(三) 鑑定人井狩節作成の昭和三十年八月六日付鑑定書によると、右鑑定当時右ズボン及び両刃叩きにいずれも血液型B型の人血が附着していたことが認められ、
(四) 鑑定人浜岡肇作成の前掲鑑定書三通、第三十二回公判調書中の証人浜岡肇の供述記載及び第三十四回公判調書中の証人並びに鑑定人としての浜岡肇の各供述記載によると、判示被害者五名の蒙つた創傷には、各被害者ともそれぞれ、薄い矩形の稜角を有する鈍器によるものと庖丁様の鋭器によるものとがあり、そのうち鈍器による創傷については、前記石工用両刃叩き(証第一号)によつても右被害者等が蒙つたと同じ状態の創傷を与えることが可能であり、殊に、夫光栄の死体の頭蓋右側部には右両刃叩きの刃状となつている矩形と同じ型状の陥没骨折が存在すること、及び各被害者につき、いずれも、その鈍器による創傷のうちには頭部挫裂創を、又鋭器による創傷のうちには頸部刺切創を含むことが認められ、
(五) 第十七回及び第三十六回各公判調書中の証人金徳南の各供述記載、第十二回、第二十一回及び第三十一回各公判調書中の証人笹岡満枝の各供述記載、第二十九回公判調書中の証人中西梅次郎の供述記載並びに李慶子の司法警察員に対する昭和三十年七月二十二日付、検察官に対する同月二十三日付各供述調書を綜合すると、前記ズボン(証第二号)が被告人の所有にかかり且つ本件犯行の直前まで被告人において常時これを着用していたことが認められ、
(六) 司法警察員谷利重之作成の昭和三十年七月十五日付報告書、同人作成の同日付領置調書、鑑定人浜岡肇作成の同年八月三十日付鑑定書、鑑定人上田騏一郎作成の同月四日付及び同年七月二十七日付各鑑定書及び証人浜岡肇の第三十九回公判廷での供述によると、本件犯行の日且つその発覚後、被告人の手足の爪二十本全部を切り取り、これを鑑定したところ、両手の爪十本分のうち九本分及び左足の爪五本分のうち四本分にはいずれも人血痕が附着していて、そのうち左足の爪四本分に附着している血痕の血液型はいずれもB型であり、又右足の爪五本分にもその内側の根元の所に血液型B型の人血痕が附着していたことが認められ、しかも、本件犯行の機会以外に、被告人の手足の爪にさような人血痕が附着し得るような機会のあつたことを肯認するに足る資料がなく(なお、この点に関する被告人の弁解がいずれもこれを採用し得ないことは、後に説明するとおりである)、
(七) 鑑定人浜岡肇の作成にかかる前掲金申生外三名屍解剖鑑定書及び夫貴恒屍解剖鑑定書によると、判示被害者五名の血液型はいずれもB型であることが認められるのであつて
以上(一)乃至(七)において認定した各事実と
一、さきに認定した判示冒頭記載の事実
一、押収にかかる石工用両刃叩き一挺(証第一号)
とを綜合すると、被告人が判示の如き動機、心情より判示兇器を用い殺意を以て判示犯行に及んだものである事実を認めることができる。
なお、ここで、前記(五)の事実の認定に関連して争点となつた事項について附言することとするが、まず、
(1) 第十七回及び第三十六回公判調書中の証人金徳南の供述記載により明らかなように、同人が前記ズボン(証第二号)を以て被告人の所有にかかり且つ被告人が自から着用していたものであると断言する根拠の一つは、そのズボンにつき金徳南自らが修繕した裾の部分に特に記憶があることによるものであるところ、右ズボンの裾の修理部分と、昭和三十三年五月十三日同人をしてズボンの裾様に縫つた布地(証第十七号)に右ズボンに施したと同様の加工をさせて作製した(受命裁判官の検証調書参照)物の加工部分とを比較すると、その縫目の密粗、止め糸の処理方法等に差異が存し、全般的に言つて、後者は、前者に比し、粗雑であることが明らかであるが、しかし、後者が、既に被告人の許を去り判示冒頭及び判示第三記載の如き軋轢を経た後既に他に配偶者を得て新生活に入つている右金徳南が、受命裁判官より命ぜられたために、止むを得ず、被告人を含む多数の訴訟関係人の面前で、意に添わぬままに短時間でその加工を施したものである以上、前掲証人金徳南の各供述記載により認め得るように被告人との平穏な夫婦生活の継続中夫たる被告人のため愛情の発露として自らの発意でその修繕を施した前者に比し、遙かに粗雑であつたとしても、寧ろこれは当然の事であり、しかも鑑定人角出信太郎の第四十二回公判廷における供述によつても、右両者が別人の手によつて修繕、加工されたものであることを認めることができないから、両者の間に前記の如き差異が存するとしても、これのみでは、右(五)の認定を覆えすに足りない。次に、
(2) 第十三回公判調書によると、その公判の行われた昭和三十一年十二月三日公判廷において被告人に右ズボンを着用させてその状況を検証したところ、該ズボンは一見して被告人には小さ過ぎ、その胴廻については、ズボンのその部分を左右から充分に引張つてもなお大きく開いて合わず、最上部のボタン(第一ボタン)の中心からこれに対応するボタン穴までは約八糎の間隔があつて、到底右ボタンを掛け得ない状態であり、又その長さも、裾が被告人の踵下より十七糎上の所までしか達しない程、短かかつたことが認められ、従つて、一般の「着用」という観念から言えば、右ズボンは、右検証時において、被告人に着用の困難な状況にあつたものと言わざるを得ない。しかしながら、
(イ) 被告人が自己のズボンであることを自認する(第十六回公判調書参照)証第五号、第七号乃至第十一号の七着の寸法を検すると、その胴廻において七十八糎から九十三糎までに及び、又股下において六十三糎から六十九糎に及ぶというように、大小様々であり(第二十二回公判調書)、このことから推測すると、被告人は、平素より、当該ズボンが何んとかして着られる限り、自分の身に合うかどうかということには、余り意を用いることなく、無頓着にこれを着用していたのであり、殊に、本件証第二号のズボンは、前認定のように、これが押収されるまで約一週間汚水に浸されていたものであるところ、右汚水に浸される前の状況において、その胴廻の寸法は七十六糎乃至七十六糎五耗、股下の寸法は六十五糎であつたと認められ(鑑定人松岡石一、同辻村次郎各作成の鑑定書及び第二十二回公判調書)、その胴廻において前記証第五号のズボンの寸法七十八糎に比し僅か一糎五耗乃至二糎程度短かいだけであり、股下においては前記証第七号のズボンの寸法六十三糎より却つて二糎長いこと、
(ロ) 被告人の体重は、本件犯行より二十四日後である昭和三十年八月八日当時には五十五瓩であつたのに証第二号のズボンの着用状況を検証した第十三回公判より九日を経た昭和三十一年十二月十二日当時には五十八瓩二百瓦に増加している事実(京都刑務所長作成の昭和三十二年九月十三日付及び昭和三十一年十二月十二日付各回答書)と、第三十一回公判調書中の証人神山米千代、小笠原はんの各供述記載とにより、被告人は、本件犯行以前に比し右検証時には相当その体重が増加しておることが明らかであり、従つて、その腹囲もまたこれに応じて増加したことが推認されること、
(ハ) 第二十八回公判調書中の証人辻村次郎の供述記載と証第二号のズボンの現時の形状自体とに徴して明白のように、右のズボンは、前ホツクの一方が欠除し、第一ボタンが正常位置よりやや内側に付け替えられ、第三ボタンの欠除後の根元の布は突出していて、これにより、該ズボンは、その使用者によりかなり無理な状態で着用されていたと認められる事実
と、鑑定人丹生治夫作成の鑑定書並びに証人丹生治夫の第三十九回公判廷における供述とを対比すれば、右証第二号のズボンの着用状況が前記第十三回公判調書記載のとおりであつたとしても、これによつて直ちに前記(五)の認定を覆えす訳にはいかない。
更に、被告人は、前記認定の(六)の事実に関連して、捜査中にも(被告人の検察官に対する昭和三十年八月十三日付供述調書二通参照)、公判においても(第三回公判調書参照)、本件犯罪発覚の直後、消防職員が、未だ生存していた被害者夫貴恒を担架で搬出するため、本件家屋の調理場横の狭くなつた所を通る際、担架が傾いたので、自分は、夫貴恒が担架から落ちないように、両手で同人の肩を持ち、右搬出を手伝つたが、その際手の爪に同人の血が附いたのかも知れない、と弁解し、又当公廷において、判示冒頭記載のように昭和三十年七月初頃和歌山県下で金徳南を発見した日、同地で同女とともに旅館に泊り、その夜同女に情交を挑んだ際、同女の経血が自己の手足の爪に附着したのである。と弁解するのであるが、
(1) 右夫貴恒搬出の際同人の血が附着したとの点については、第三回公判調書中の証人亀井音市、同赤木忠志、同桑田保友、同岩本馨、同有富康の各供述記載及び検察官作成の実況見分調書によると、右夫貴恒の搬出に当り、被告人が、これを手伝つたり、或いはその他の理由により同人の身体に触れた、というような事実は全くないことが認められるから、この点に関する被告人の弁解はこれを採用し得ないし、又、
(2) 金徳南の経血が附着した旨の弁解についても、証人金徳南に対する受命裁判官の尋問調書に徴し、これを採用し得ないばかりでなく、元来、被告人の手足の爪に人血痕が附着しており、しかも足の爪に附着している血痕の血液型は被害者等の血液型と同じB型であるということは、既に昭和三十年十月四日の第一回公判における冒頭陳述において、検察官側の有力な資料として明らかにされ、その後の公判においても、屡々このことが審理の対象とされたのであり、このことは被告人においても充分諒知していたものと解すべきところ、右第一回公判より約二年六月を経過し且つ約四十回の公判を重ねた昭和三十三年四月二十八日の第四十回公判まで、このような趣旨の弁解は全然これをしなかつたのに、右第四十回公判に至り、突如、しかも金徳南の血液型に関する鑑定書の証拠調として同人の血液型がB型である旨が初めて告知された直後に、恰もそれに符節を合せたように、右の弁解をしたものであつて、このような経緯に徴しても、被告人の右弁解はたやすく信用できないものであるといわざるを得ない。
以上の理由により、判示第四の事実についても、その証明は充分である。
刑事訴訟法第三百三十五条第二項所定の主張に対する判断
判示第一の事実について、弁護人は、被告人の行為は、潘茂権が被告人の自室に侵入して来て暴挙に出ようとしたので、この急迫不正の侵害に対し、自己の権利を防禦する為になしたものであつて、正当防衛行為である旨主張するが、被告人の本件行為は、前認定の通り、被告人の挑発に基ずく口論にはじまつた喧嘩斗争中の一行為であり、しかも、第二十回公判調書中、証人潘茂権の供述記載によれば、潘茂権が土足のまゝ被告人の部屋に侵入したのは、既に同人が被告人より判示の暴行を受けて後のことであり、判示行為前には被告人において自己の権利を防衛すべき何等の急迫不正の侵害も存在しなかつたことが認められるから、弁護人の右主張は採用出来ない。
法令の適用
被告人の判示所為中、第一、第二の(二)、及び第三の各傷害の点はそれぞれ刑法第二百四条、罰金等臨時措置法第二条、第三条に、判示第二の(一)の暴行の点は刑法第二百八条、罰金等臨時措置法第二条、第三条に、判示第四の各殺人の点はそれぞれ刑法第百九十九条に、順次該当するところ、右各傷害、及び暴行の罪につき所定刑中各懲役刑を、各殺人の罪についてはいずれも所定刑中無期懲役刑を、それぞれ選択し、以上は刑法第四十五条前段の併合罪の関係にあるが、犯情最も重いと認める金申生に対する殺人の罪につき無期懲役刑を選択したので同法第四十六条第二項本文に従い他の刑を科せず、被告人を無期懲役に処し、押収中の証第一号石工用両刄叩きは判示第四の各犯行の供用物件であり、犯人以外のものに属さないから同法第四十六条第二項但書、第十九条第一項第二号、第二項本文に則りこれを没収することとし、訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条第一項本文を適用して全部これを被告人に負担させることとして、主文のとおり判決する。
(裁判官 河村澄夫 石原武夫 富沢達)